海路の果て
遠く遠くの海で水面が揺れている。そんな幻想に浸りながら、眠りに就くのが好きだった。夢を操れるわけではないけれど、そんな日の夢は必ずそれの続きだった。薄く晴れた昼間の穏やかな浅瀬で、君は水面を爪先で弾きながら笑うのだ。
☀
「また来たの」
夢を夢だと理解してからというもの、彼はこちらの認識に合わせて喋るようになった。だから、最初の一言は決まってこれだ。けれど、いつも私は何も言えなくて、ただ曖昧に笑うだけだった。そして、それを見た彼が、まあいいけど、と足の裏で水面を撫でるのもお決まりの流れになっていた。
「君もおいでよ」
珍しく、彼が自らの遊びに私を誘った。ぱしゃりと跳ねる水滴が太陽を反射して光る。いつも彼が波と戯れているのを、跳ねては落ちる水滴を、ぼんやりと眺めるのが好きだった。だから、迷った。自分がそれを生み出す側に回っても良いものなのか、わかりかねていたからだ。いつの間にか私は、その光の粒を随分と崇高していたらしい。そして、同時に彼のことも。否、彼を崇高しているからこそ、そう思っていたのかもしれない。少なくとも、私は彼が好きだったし、尊敬していた。いや、しているのだ、今もずっと。
「ね、おいでよ」
「……うん」
彼がこちらへ腕を伸ばす。そうされてしまえば、断る理由なんて持てなかった。踏み締めるように砂の感触を味わいながら、私は彼の手を掴んだ。彼は、恭しい素振りで私の手を引いていく。足首まで水に浸かったところで、ようやくその手が離れていった。
「どう?」
彼が私の顔を見詰めている。私は、なんと答えたら良いのかわからなかった。水が意外と冷たいことを言えばいいのか、水面が光っていて綺麗だと言えばいいのか、はたまた、波が擽ったい事を言えばいいのか。
「……いいね」
暫く逡巡してから遂にそう答えたら、彼は柔く微笑んだ。彼の機嫌を損ねなかったことに、私は少し安堵していた。けれど、良いことなんて何も無かった。彼が居て、彼の傍でも私の下でも、波は煌めいている。それなのに、私はこれを夢だと知っている。理解して、それでもこれを拠り所としている。こんな幸せはもう無いと手放せずにいる。彼が、本当の彼かどうかなんて、確かめようが無いのに。
「悲しいの? 」
再び波と戯れ始めたはずの彼が、気づけばこちらの顔色を窺っていた。後ろから射す太陽が、彼の表情を隠していた。眩しさに目を細める。それで、気が付いた。頬を転がった滴に。口元へ伝う塩辛さに。気が付いてしまったのだ──これが、最後だということに。
「ううん、嬉しいの」
零れ落ちる涙を止めることすら出来ないまま、それでも私は嘘を吐いた。彼は少し顰め面をして、嘘だ、と口を窄めた。彼の機嫌を損ねてしまったことが申し訳なくて、私は素直に「ごめん」と言った。口を窄めたままの彼が、静かに近付いてくる。波が立って、たぷんと小さく音が鳴った。そうして私は、彼の温もりに包まれていた。
「だいじょうぶ、また、すぐ会えるよ」
背中に手が添えられたのを感じてすぐ、耳元で囁く声がした。瞬間、波の音が大きくなる。ざあ、と風が強くなって、二人の髪を大きく靡かせた。波も風もつめたい筈なのに、太陽も、彼も、私だってあたたかい筈なのに、それらすべてが遠くなっていく。消えて、無くなっていく。視界が、暗くなっていく。
「約束だからね」
そう言って笑った彼の声が、聴こえた気がした。
☀
人の聴覚は、死後数分保たれているという説がある。それは嘘ではないのかもしれない、と私は思う。確かに聞こえた彼の声は、私をうんと強くさせた。だって、目覚めたら、彼は確かに此処に居たのだ。
だから、私はもう、怖くなんてない。繋いだ手の温もりすら、わからないままだとしても。
「だって君と天国に逝けるよう、神様とずっと懸け合ってきたんだから」
───終。