Soliloquy box

松葉が纏まりのない文章を溢すだけの箱

胡蝶の夢

 

 目が覚めたら私は十六歳で、白いシーツが敷かれた病院のベッドで白い布団に包まりながら寝転んでいて、十五センチしか開かない窓から射し込む陽射しを眺めているような気がする。朝を朝だと感じるまでにも時間を要して、それが判るころには起床時間のベルが病棟中に鳴り響いている。緩慢な動きで重い身体を起こして、これまた病棟中に流れるラジオ体操を覚えた動作だけ行う。それ程美味しくない朝食を謎の使命感で完食し、食べてしまった後悔の念だけで病棟中をひたすら歩き回る。昼食も同じように掻き込んでは直ぐに徘徊して、疲労感で更に重たくなったような身体を引き摺るように唯一の外である高いフェンスが聳え立つ洗濯干し場に出て、壁に貼るような大きなカレンダーをレジャーシート代わりにして風を浴びる。夕食を平らげて、夜が近付くと滅入る気持ちが私を吞み込んでゆくから、与えられた眠剤でさっさと微睡みに挨拶して仲良く一晩を共にする。そうしてまた、同じように朝が訪れて、私は白いベッドで目を覚ますのだ。

 

 時折、あの頃の私と現実の私が交錯して、何方が現実で、何方が夢だかわからなくなる。現実だと思っていた今の私は、胸の内に巣食う焦燥から目を逸らしてただ眼前に広がる暇を持て余していた、あの頃の自分が見ている夢なのではないか。楽しかったことも糧にしようと決めた苦しい出来事も、そういう大切な時間が全部詰まっている煌めく宝箱のような、そんな倖せな夢を見ていたのではないか、と。でも、実際はどうやらそうでは無くて、そういう時は大抵、現実を直視したく無い時だということだけは理解していた。けれど、そもそも私はあの頃の自分に戻りたいと思っているわけでは無い。むしろ、二度と戻りたくない、とすら思っている。それでも、その自分が見ている夢なのではないか、と現実を捉えようとしてしまう。それは私にとって、今の自分自身の状態を自覚させるような、酷く衝撃を与える事実でもあった。そして、より“これは夢なのではないか”と思いたくなってしまうのだ。

 思い返せば、期間としてはひと月にも満たなかったあの時間は、自分にとって最も時の流れが遅く感じられたように思う。記憶が曖昧な所為で、よりそう感じるのかもしれない。思い出される記憶も、すべて自分であって自分では無いような気がしている。正直それは自分の過去を振り返ったときに毎度感じる事なのだが、あの頃の自分に対してはより強く、強烈に感じてしまうのだ。

 何もかもが儘ならなくて、けれど儘ならなかったからこそ其処に存在していることを赦されていた、あの春の終わりの自分が、今も心の奥底から私を見ている。現実に怯える私を「本当のお前は此処だよ」と脅している。そして、それに呑まれるほど弱くも無く、またそれを振り切れるほど強くも無い私は、今日も、命綱の無い綱渡りのような現実に縋り付いて生を貪っている。これは夢なのかもしれない、と思いながら。

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