Soliloquy box

松葉が纏まりのない文章を溢すだけの箱

僕は、君の王子さまになりたかったよ。

 

「私、本当は人魚なの」

 彼女は、そう言って鼻で笑った。自分で言ったことなのに、鼻で笑った。僕も僕で、また随分と理解し難いことを言っているなと思ったが、その日彼女は、灼熱のコンクリートをサンダルを持って裸足で歩いていたので、強ちそうでも無いのかもしれないと思った。そうして考えあぐねた結果、僕は“人魚だから足裏の感覚が無いのかもしれない”などと思い至り、最終的に「そっか」とだけ返した。今思えば人魚は半分が、しかも足の方が魚なのだからこの猛暑にすら耐えられる筈も無くて、やはり彼女は理解し難い人間だった。理解し難い言動をした時に“理解し難いな”と思えるのは、人間の言動だけだ。まあこれは、僕自身が思っているだけのことだが。

「冷たいなあ、相変わらず」

 右足用のサンダルを右手に、左足用のサンダルを左手にきちんと引っ掛けて歩く彼女は、道路に引かれた白線の上を踏み外さず歩くことにご執心だ。そのくせ、彼女にしっかりと注意を向けている僕のことを、冷たいと言う。多分、足裏の温度が基準になってしまっている所為だろう。僕はひとつ溜息を零した。彼女はまた少しだけ鼻で笑って、白線の上を一歩ずつ踏み締めて歩いた。海沿いの田舎町なら防波堤の上でも歩いたのかもしれないが、ここは少しだけ都心から離れただけの住宅街である。灼けたコンクリートの、その中でいっとう白く細い線の上を、綱渡りのように裸足で歩く少女はそうそう居ない。けれど僕はその隣を、しかもきっちりと車道側を、彼女の横に並んで歩いていた。それでも彼女の中で、僕は“冷たい”らしかった。

「もうちょっと、驚くとか無いの」

 どうやら彼女は、僕の反応が鈍いことが気に入らないらしい。彼女の足裏の感覚の方が鈍くなっているのではないかと僕は思ったが、僕は少なからず彼女よりは賢明なのでそれを口に出すことはしなかった。

「えぇ、知らなかったなあ」

 彼女の要望に応えて大きめの声で言ったにも拘らず、彼女は「感情が入ってないなぁ」と、これまた感情の無さそうな声で文句を垂れていた。僕の家までの角はもうひとつしか無いと言うのに、彼女は裸足のままだ。専業主婦である僕の母親と彼女は面識があるし僕自身も家で数回程は彼女を話題に出しているけれど、こんな素行の少女だと知ったらどう思うだろうかと、考えて少しひやりとした。ひやりとはしたが、素行という物は隠すことが出来ないので、僕はやはり黙っていた。今日の僕たちは、やけに沈黙が多かった。その日はそう思ったが、そうでもなかったと今は思う。きっと、今日が僕の中で強烈で、そして未だ鮮明だからなのだと思う。きっとじゃない、絶対にそうだ───だって、これは。

「じゃあ、またね」

 先に僕の家の前へ辿り着いた彼女が、白線の上を踏み外さないままで器用にこちらを向いて、そして、微笑んだ。母親の車は無かった。僕は少しだけ安堵した。それは間違いだった。

「うん、また明日」

 そう言って、僕は彼女を見送った。一人で歩き出してからも、彼女は律儀に人魚の設定を守っていた。僕がこうして時折彼女を見送っていると、彼女は知っていたのだ。彼女の家は僕の家よりもうひとつ奥の角を曲がって、それから少し歩いたところにある。きっと、その角を曲がるまで、彼女は裸足で歩き続けるだろう。それは少し可哀想に思えたので、僕は態と大きめに家の門を開閉した。聴こえれば良い。そして、彼女が人間に戻ってくれれば良いと、思いながら。

 

 じりり、とけたたましい音がして、僕の意識は現実へと引き戻された。腕を伸ばせるだけ伸ばして、ようやく届いた目覚まし時計のアラームを止める。彼女の夢を見ると、いつも汗を掻いている。けれど、汗だけでは無いことを、僕は解っていた。口に入った塩味は、海のそれに比べれば到底敵わない。それでも、僕はその味が酷く愛おしく感じられた。

 彼女は、人魚だった。彼女が帰らないことを知ったのはその日の真夜中で、彼女が還らないことを知ったのは、翌朝、彼女が学校に来ていないことを知ってからだった。僕らは毎日「また明日」と言ってから別れていた。けれどあの日、あの日だけ、彼女は「じゃあ、また」としか言わなかった。“また”の先がいつなのかを、彼女は教えてくれなかったのだ。

 それから暫くして、彼女にはずっと片想いしていた人間が居て、あの日に振られていたことを知った。そういえば、彼女はあの日、俯きがちだった。目元が赤かった。ずっと瞳が潤んでいるような気がした。僕はそれを、確実に、確実に見ていたのに、見て見ぬ振りをした。何も言わなかった。片想いをしていることだって、知っていたから。だって僕は、ずっと、彼女に注意を向けていたのだ。彼女が誰かに恋をしていたように、僕も、僕だって、彼女に恋をしていた。彼女が、好きだったのだ。

 彼女は人魚だった。美しい、人魚姫だった。だから、泡のように消えてしまった。そして僕は、彼女が恋焦がれる、王子さまでは無かった。それだけのことだった。夏は直ぐに去っていって、彼女らしき水死体がどこか遠くの海で発見されて、その話題も泡のように消えていった。僕のこの想いも、消えてくれれば良かった。けれど、それでは彼女が人魚だった事実を、それを僕だけに打ち明けたことすらも、無くなってしまう気がした。それは、それだけはどうしても嫌だった。

 相反する感情が胸の内で混ざり合う度に、僕はこうして夢を見る。そして、彼女が居ない現実に戻る度、塩味を愛おしく思って、そんな自分を鼻で笑った。そうしたら、彼女が、「冷たいなあ」と笑ってくれる気がして。“願わくば──”なんて思う、僕の灼けたままのこの気持ちごと鼻で笑って、泡のように、軽くしてくれるような気がして。

 

 

  ───終。

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