Soliloquy box

松葉が纏まりのない文章を溢すだけの箱

Short Sentence5⃣

 何度目かの"自分らしさ"を見失った夜。投げた肢体はシーツの上にちらばって、遠く伸びた指先は霞み、ぼやけていた。雨は止んでしまって、鬱気は更ける闇夜の中へ溶けていく。鈍感になる事だけが得意だった。けれどそれは、鋭敏なことときっと同義で。知っているから知らない振り。"自分らしさ"なんて、最初から無かったんだよね。わかってる、わかってるわかってる。わかってるよ。君が望むわたしで居られればいいよ。そのうちにほら、もうぜんぶ、わからないからさ。刺さる棘は抜いて、血溜まりは影にして、微笑ってあげるよ、きみの為に。

Short Sentence4⃣

 踵を上げて背伸びをして、それでも空を飛べやしないから、わたし、鳥が好き。先行く腕を引くだけで、君はいつも立ち止まって振り返って、微笑んでくれた。それからどちらかの部屋に転がり込むのがお決まりだった。最初にキスをせがむのはいつだって君で。そんな倖せが続くことを夢想していたの、ずっと。恋人ごっこはもう辞めよう、なんてさ、始めたのはわたしなんだから、勝手に決めないでほしかった。それなら、初めから君なんて居なかったことにしてほしいよ。君との想い出はもうわたしの中に住み着いてしまって、これが恋なのだと今も囁き続けている。ねえ、君の内側にいるわたしは何になるの? 終わったものが恋でなくなってしまうなら、最初からそんなもの必要ないことにしておきたかった。わたしね、空を飛べないの。君だって同じでしょう。それなら、どうしてこの気持ちは同じに成れないの。同じところは幾つだって見つけられる筈なのに、ひとつの違うところで全部が有耶無耶になってしまった。酩酊した幸福感で不幸が浮き彫りになる。声が震えても、もう温もりはやって来ない。寄り添ってはくれない。人生がゲームだったらよかった。それならわたし、絶対にセーブポイントから動かないのに。上書き保存されてしまった関係は、戻ることも、デリートすることすらも叶わない。君が居なくなって戻って来たひとりぼっちの生活が、君と過ごした日々を消していく。消えていく。わたし、来世は鳥になろうと思う。同じところが少なければきっと、こんな結末は来ないから。だから、覚えておいて。わたし、鳥が好き。

 

Short Sentence3⃣

 脳が揺れる。実際は揺れてなんかいないのに揺れている。視界がぶれて滲んでいく。鮮明になんて見えたこと無いのに、世界から切り離されたような気がして、安堵、それから焦燥。僕も君も"ほんとうのこと"なんて何も知らないんだ、だってそんなもの何処にも無いのだから。ボディーソープを塗りたくれば乾燥しないわけじゃないし、洗い落とせば総てが綺麗になるわけじゃない。ささくれ立った心はずっと枯渇している。何を求めているのかもわからないままで、代替手段だけが積み重なっていく。お腹を満たしても心は充たされないよ。そう言われても、一度堕落してしまえば、這い上がるときに掛かる負荷は絶大だ。にかにかと痛むお腹を撫でて言い聞かせてみせてよ。そうやって、他力本願。やっぱり視界は揺れたまま。罪悪感と憎悪が幸福感と混ざり合って、それが人間になるんだよ。だから君も僕もそれからみんなも、とてもとても人間だよ。良かったね。

Short Sentence2⃣

 毎夜、目が覚める。閉め切ったカーテンの向こうで、世界はまだ冷め切った闇に包まれている。ぼやけた意識の中、感情はその闇へ呑まれたかのように暗く重く横たわっていて、憂いだか何だかが鬱蒼と茂っている。暗澹が腰を据えて、虎視眈々、心の隙を狙っている。防具はもう尽きてしまった、いっそサイボーグになれたら、否、もうこれ以上の非難は勘弁してほしかった。避難したこの部屋ですら侵されて、青鈍の海で溺れている。それならもうお葬式でもしようか。今日の僕を殺めて、明日の僕が喪主を務める。参列者は、今同じように海の底へ落ちた君たちでどうだろう。朝日が昇る頃、皆で地獄へ行こうか。それとも、此処に比べれば何処だって天国なのだろうか。闇夜に酔い痴れて酩酊した脳は、答えを弾き出せぬままに微睡みを連れて来る。そうだ、もうひと眠りして総てを明日の僕に託してしまおう。死んでしまえばどうせ、何もわからないのだから。

Short Sentence.

 もう届かないことを歓びながら、届いてくれれば、なんて思っている、夜。君は今、何をしているのだろう、星に問うたって教えてはくれないけれど、君も見ている気がして寒いベランダでひとり、ずっと。ここから見た星々は欠片のようにか細いのに、光を越えて行けば煌々と輝いているだなんて、まるでマボロシのようで、僕と君のようだ。

 桜吹雪も、夏の海も、紅葉の川も、冬の夜も、全部全部知っている筈なのに、何もかも失ってしまった。これでもか、と思うくらい愛おしくて、どうしようもなく憎たらしい。それが僕にとっての君で、君にとっての僕だろう。人間が結んだものは、人間が簡単に切ってしまう。あの星座だってきっと同じだよ。君の好きなそれの名前だけ、綺麗サッパリ忘れてしまった。その形すら桜のように散ってしまえば、紅葉のように流れてしまえば、もうわからなくなってしまうね。それでも海のように煌めいて、夜にこうして輝くのだから、想い出なんて本当にくそくらえだ。

にんげん

 誰かが「人間とは友達じゃありません」と言ったから一人の人間が傷ついてしまった。「どうやらあの子は人間じゃなかったみたいね、可哀想に」と誰かが自分のお優しさとやらに酔って一人の人間の心が砕けてしまった。人間はかんたんに人間を虐める。そんなこと動物でもするんだからかんたんに解る事なのにね。「だから人間が人間を虐めるのは仕方のないことだよね」ってそうじゃないんだよ馬鹿なのかね君は。人間が何のために知能を持ったのか考え給え。他の種族を見て同じことを繰り返さないように知能を持ったんじゃないのかね。虐めをする動物たちを見てどうして同じことを繰り返すんだ。だから人間は馬鹿なんだ。「先生、此処の人間が人間を虐めています」「わかりました、守衛を呼んで退出させましょう」ああああこうして糾弾することだけが上手になって全くもう。ただ糾弾したって虐めは無くならないんだよ。力のある人間が、声高に叫ばなければならない……え、あれ?私かい?私が虐めたことになっているのかい?そうか、君は声高に叫べる力ある人間だったのか、なら良かったよ。こうして説教を垂れている人間は必ずしも正しいことを言っているとは限らないのでね、時にはそういう人間にも言及してやらねばならない。え?まだ言うのかって?ああ、なあに、これは自分を顧みているのさ、人間は時に自分を戒めて反省せねばならぬときが有るのでね。戒めが出来るのも人間固有の能力だろう。反省点を克服し自らの力に変えてこそ人間は強くなるのだよ。ああそうだった、退出だね、仕方ないなあ。「お前が連れてきた人間、今日も全く変わっていなかったな」「どうやら記憶を無くしてしまうみたいなんだ」「酒を与えすぎなんじゃないか?一合は超えていると聞いたぞ」「どうも酔うと目が据わって、かと思えば悟りを開き、そしてそれを語り始めるのでとても面白いんだ」「なに、それなら今度の観察は深夜に執り行うとするか」「それは愉しそうだ」「では、明後日の深夜一時に落ち合おう」「そうしよう」「ああ、それにしても本当に、」「「「人間は馬鹿で愉快だなあ」」」

ふたご座の秋

 視界の端で、戯れのように彼女の髪が揺らぐ。最近染めたばかりだというその栗色は、どことなく、秋の始まりを知らせているような気がした。

 

 

「海へ行かない?」

 宵が終わり煌々とした月の光が窓から射し込んで、満面の笑みでそう言った彼女を浮かび上がらせていた。薄手の布団でふたり、包まって取り留めのない話をしながら眠りに就く筈だったのだが、どうやら彼女は違ったらしい。やけに素足を絡めてくるので、そういうお誘いかと思って少し期待した自分を返して欲しい。いや、返されても困るけれど。

「……海まで、どれくらいかかるか知ってる?」

「今なら道も空いてるし、二時間ぐらいで行けそうだよね」

「いや、そういうことではなく」

 思った通りの展開になって、思わず溜息が漏れる。彼女は「えー、わかんなぁい」などと言いながら、相変わらず足の指を器用に使ってふくらはぎを撫でてくる。爪が伸びているのか、少し痛い。そういえば彼女のペディキュアは随分と上の方に居た気がする。お気に入りだと見せびらかすように眼前に迫ってきた、あのルビーみたいなラメ入りの赤を彼女の爪に塗ったのは何時のことだったか。苦手だからやって、と頼むどころか足で攻撃してきたくせに、歪な出来栄えを見た彼女は、自分でやった方が良かったなどと文句を垂れていた。お礼の代わりと問答無用でこちらの爪に塗られたエメラルドグリーンは、確かに綺麗だった。けれど、きっとこれも彼女のほうがよく似合うのだろう。

「ねえ、行かない?海見たくない?」

 先程の拗ねたような声音とは打って変わって、甘やかな囁きが鼓膜を撫でてくる。こうなってしまうと、彼女にはもう逆らうことが出来ない。彼女はそれを理解していて、理解したうえでこの手法を使ってくるのだ。たちが悪い。けれど一番たちが悪いのは、そうやって彼女に絆されるのを待っている自分自身なのではないかと、最近気が付いてしまった。

「もう、しょうがないな」

「やった!ほら、早く行こう」

 だからこそ、こうして彼女に振り回されておく。それで彼女が楽しそうにしていれば、自分の醜さが上書きされるような気がするのだ。ただ、彼女が望むように生きていれば良い。だって、それが、本望なのだ。

 喜び勇んで起き上がった彼女の脚が布団からはみ出して、案の定、爪の先の先に辛うじて残っている赤と目が合った。対比のようなお揃いのようなそれは、彼女とふたりで居る時しかお目に掛かれない。仕事の日や公共の場で会うときの彼女は、必ず靴下を履いているからだ。彼女名義で借りた、ベッドとテーブルと少しの家電しかないこのワンルームに居る時、そして、彼女の我儘で一緒に外出する時しか彼女は裸足にならない。以前それとなく理由を訊いてみたら、秘密みたいで良いでしょ?という返答と小悪魔みたいな狡い笑みしか返ってこなかったので、それ以来気にするのを止めた。

 二人して部屋着を床に脱ぎ捨てる。それから、自分は適当なシャツを羽織ってデニムを履く。対して、彼女は生成りのワンピースを纏っていた。このワンピースは彼女のお気に入りだ。近所の古着屋で安く手に入ったのと、帰宅早々自慢げに告げてきたのでよく憶えている。それに、彼女にそのワンピースは良く似合っていて、正直すごく胸が苦しい。やはり自分は、彼女に弱いのだ。

 財布と携帯だけを持ち、揃いのサンダルに足を突っ込んで、外に出た。玄関を施錠して、アパートの階段を駆け下りる。定位置に止まっている車に乗り込んで、キーを差し込んだ。エンジン音を聞きながら、シートベルトを締める。それを見て、助手席に座った彼女が思い出したようにシートベルトを締めた。カチャ、という音がしたのを確認して、車を発進させる。彼女はどうかわからないが、少なくとも自分は上手く言い表すことの出来ない背徳感に襲われていて、その所為か車内には暫く沈黙が流れていた。

「夜の海ってさ」

 車が高速道路に入って少し経った頃、その沈黙は打ち破られた。彼女がぽつりと落とした言葉は、高速道路特有の轟音の中で辛うじて聞き取れる程度のか細い音だった。合わせるように、こちらの相槌も小さくなる。聴こえたのかどうかわからないが、彼女はそのまま話を続けるようだった。彼女が喋る時、ついその表情を見たいと思って見詰めてしまうのだが、彼女の唇が動いたところで運転中であることを思いだし、慌てて前を向く。彼女を事故に遭わせるような失態は、犯してはならないのだ、決して。

「夜の海って、何色なんだろう」

「黒、じゃないの?」

「それは、私たちの周りが夜だからでしょ」

 どうやら彼女は、時折こうして気に掛かった事を考察するのが好きらしい。それに付き合わされて幾度となく夜を明かした。議題を持ち出した当人が早々に飽きてしまい、反対にこちらが気になって仕方なくなることもあった。どうやら、今夜はこの疑問が発端になったようだ。実際に確かめようと思うのが如何にも彼女らしい。

 夜イコール黒、のような公式が出来上がっていた脳内では彼女の望む答えなど出せず、けれど彼女もそれっきり何も言わなかったので、車内は再び沈黙の支配下となっていた。夜の高速道路を滑るように走り続ける車の中で、風の強い音に規則的な呼吸音が混ざり始める。横目で見た彼女は既に夢の中だった。ここで引き返すことも考えたが、彼女の疑問に侵食されてしまったこちらの脳内では、それは止む無く棄却されてしまった。こうして睡眠不足は蓄積していくというのに、どうしても辞められないのだ。

 彼女の甘やかな声に、仕草に、こうしてずっと囚われている自分は、麻薬の中毒者とそう変わらないようにも思える。彼女が忽然と姿を消すようなことがあれば、きっと自分は生きていけないだろう。彼女を求めて彷徨い続ける、あるいは、彼女の居ない世界に絶望して命を絶つかもしれない。けれど、傍から見たら気味の悪いこの執着を、当の彼女は「おもしろいね」と微笑みながら言ってのけたので、彼女もどこかズレているのかもしれない。少なくとも、自分にとってはそれだけで幸せなことだった。だから、彼女の望むことは何だって叶えてあげたいと思う。ただ、それだけのこと、なのだ。

「ねえ、起きて」

「……ん、あれ、ケーキは?」

「それは夢でしょ、ほら着いたよ」

 控えめに彼女の身体を揺すれば、閉じられた瞼が徐々に開いていく。車内の灯りを反射する瞳は、今日も透き通るように綺麗だ。どうやら夢の中に居た彼女は食欲の権化だったようで、世界が中断してしまったことに酷く落胆していた。帰りに買っていくことを提案した途端、シートベルトを外してドアを開けていたので、こちらの手持ちをこっそりと確認する。うん、大丈夫、コンビニのケーキくらいなら何とか買えそうだ。

 自分もシートベルトを外して、外へ出る。気持ちよさそうに伸びをする彼女に倣って、運転で凝り固まった筋肉を緩めるように伸びをした。すこし冷たくなった夜風に混じって、海の匂いがした。夏と秋の境目にいるような、不思議な感覚だった。彼女がワンピースの裾を靡かせながら、波の音がする方へと向かっていく。二人分の足音が、交互に砂浜を蹴る。次第に波の音が強くなって、自分が今、何処を歩いているのかわからなくなっていく。高く昇った朧げな月の光では、足元までは照らせない。けれど、彼女のお気に入りのワンピースだけが、淡く浮かび上がっていた。古着屋で、安く売られていた、生成りのワンピース。私が、まだ“わたし”だった頃の、一張羅の───。

「わ、つめた!」

 不意に彼女の声が耳を貫いて、自分の意識がどこか遠いところへ行っていたことに気が付いた。と同時に、自分の足に何か冷たいものが纏わりつく。デニムの裾まで及んだそれが波だとわかったのは、彼女に腕を引っ張られてからだった。

「ふふ、濡れちゃったね」

「うん」

「サンダルで来て正解だったなぁ」

 少し歩いたところで腕が解放された。砂浜に腰を下ろした彼女が、脱いだサンダルを左手で持ち上げてあっけらかんと笑っている。自分は何だか茫然としていて、立ち竦んだままで相槌を打った。ずっと、彼女から視線を逸らすことが出来ない。今日は、その感覚がやけに強いような気がした。

「みつき」

 彼女の唇が動く。動いて、言葉を、紡いでいる。それは何だっただろうか。もう随分と遠くなった過去を呼び起こすような、そんな響きだった。彼女の右手が伸びて、私の左手を握った、そして視線が、私の───わたし、の?

「美月」

「ど、どうして」

 そうだ。彼女は、私の、“わたし”の名前を、呼んだのだ。美月、それが私の名前だった。随分と前に捨てた筈のそれを、どうして彼女は、知っているのだろうか。

「まあ、座んなよ」

 動揺して強張ったままの私に柔い笑みを見せた彼女が、握った左手を引っ張る。素直に腰を下ろした自分の左肩に、彼女が寄りかかってくる。その重みが、どうしようもなく愛おしいことに変わりはない。けれど、言い様の無い不安が胸を巣食っていく。彼女に知られているなんてこと、想定していなかった。“美月”の痕跡は、完璧に、消した筈だったのに。

「クセ、だよ」

「……クセ?」

 波の音を掻い潜って、彼女の声が鼓膜を揺らす。どうやら、問わずとも種明かしが始まるようだった。真っ直ぐ、海の方を見詰めて話し始めた彼女の横顔に、視線が奪われる。重みを感じなくなった肩が冷えていく。寒い、けれど惹き付けられて、逃れられない。今、この瞬間も、ずっと。

 そんな彼女の顔が、不意にこちらを向いた。長い睫毛の奥から、潤んだ瞳が自分を射抜いている。綺麗だ、素直にそう感じた。

「美月、私が喋る時、いつも私の顔ばっかり見るんだもの」

「え……?」

「最初は、偶然かなって思った……でもね、やっぱり、美月だなって思うの」

なんでだろうね?と微笑む彼女に、身構えていた気持ちが勝手に、ほろほろと溶け出していく。

「それは、私が聞きたい、よ」

「ふふ、だよねえ」

安堵したのか、泣き出したいような気持ちに駆られて、彼女の顔が滲んだ。自分が今、どんな顔をしているのかわからない。けれど、聴こえてきた声は酷く震えていて、彼女も同じなのかもしれない、と思った。

「最初はね…戸惑って、理由を訊きたくて……でも、否定されるのがこわかった」

「……うん」

「でも、一緒に過ごすうちにね……このまま一緒に居られるなら、良いかなあって」

「うん、」

「思ったん、だけど、ね」

 暗闇にも慣れた視界が、柔い月の光で浮かび上がった彼女の頬に伝う雫を捉えて、思わず手を伸ばした。拭って濡れた指を、彼女が掴む。視線が、もう、ずっと逸らせない。彼女の唇は引き結ばれて、瞼は閉じられていく。そして、それらすべての焦点が、合わなくなった。

「子供の頃……こうしてキスしたこと、憶えてる?」

「うん、憶えてる」

 忘れる、忘れられる、筈が無かった。まだ、私たちがいつも一緒だった頃に、一度だけ交わした、戯れのような口付けを。ずっと、憶えていた。だからこそ、私はこうして彼女の傍に居るのだ。

「その時さ、美月、言ったんだよ……“海って、何色なんだろう”って」

「……あ」

 瞬間、風が吹き抜けるような感覚に襲われた。総て憶えていると思っていた。自分が“わたし”を消す前の、あの瞬間のことを。けれど、今ようやく足りないピースが埋まった様な感じがしていて、自分はなんて狡いのだろう、と思った。たった一言で、彼女を“わたし”に、自分に縛り付けてしまった。執着しているのは、私だけで良かったのに。結局、こうして彼女を───。

 けれど、私は同時に嬉しくて堪らなかった。彼女はずっと、あの頃と同じ気持ちでいてくれた。何も言わず、ただ一度口付けを交わしただけの、あの頃と。

「私ね、ずっと解らなかった、どうして美月がそう言ったのかも、海の色も……美月が居なくなって、もっと解らなくなった」

「……うん」

「でも、美月はまた私のもとに戻ってきてくれた、だから、私、一緒に確かめようって、思ったの」

 そこまで言って、彼女は一度深く息を吸って、それから長く吐いた。

 「みつきはずっと、名前のように……優しくて美しい、月みたいだった、私も、なんで今日を選んだのかは、わからないけど」

 波の音も削がれてしまうほど、彼女の甘美な声は私の脳を揺らして、溶かしていった。きっと誰も知らない、二人だけしか知らない私と彼女の歳月を、彼女もこうして慈しんでくれていた。大切に抱えていてくれた。それが嬉しくて苦しくて、酷く愛おしくて、胸が張り裂けそうだった。再び見つめ合う。彼女の顔はずっと揺らいでいて、それがどうしようもなく、眩かった。

「今日の月が、美月みたいだったから、かもしれない……あー!なんか、違う!気持ち悪!」

 涙を零しながらこちらを見詰めていた彼女が、急に顰め面をして、立ち上がって叫ぶ。慌ててこちらも立ち上がった。微睡むように弛緩していた周りの空気は、一瞬にして冷たさを肌にぶつけるような鋭さに変わった。

「ええ、ちょっと!雰囲気台無しなんだけど」

「だって、似合わないよ、私たち、こういう感じだったの小学生までだもん」

「いや、そんなこと言われても」

 ざくざく、サンダルに砂が入るのも気にせず、彼女は再び波の方へ歩いていく。拗ねた子供みたいな言動に、今の自分と過ごしている時の彼女らしさが感じられて、頬が緩んだ。

 水辺に近くなればなる程に風は勢いを増して、彼女の髪を揺らした。バシャバシャと音を立てて、彼女は足を洗うように波と戯れている。朧な月の光がそれを神秘的なものに見せていた。彼女は、いつだって、綺麗だ。その姿を後ろから眺める。

 私が“わたし”を捨てたあの頃から、彼女の隣に立ちながらも、ずっと後ろから密かに見守っているような心地だった。それを、柔い月と夜の海が、身包み剥がして連れ去っていった。秋風が、こんなにも心地良い。

「みつき!来て」

 彼女が私を呼んでいる。ようやく、後ろめたさも何もなく、堂々と彼女の隣に立てるような気がした。つい先程の彼女に倣って、砂浜を抉るように歩く。足の裏とサンダルの間に砂が入り込んで、ジリジリと痛んだ。けれど、差し出された彼女の右手を握って波に足を浸せば、砂は海に洗い流されて、そんなことはどうでも良くなっていく。ただ、私と彼女がここに居て、これからも、こうして生きていく。ただ、それだけなのだ。

 そうそう、帰りにちゃんとケーキを買わなくちゃね。人気の無い朝方のコンビニで、生クリームが一番多いケーキを買おう。ひとつのフォークで半分こして食べるのも、良いものでしょう?そのあと、今度こそしっかりと布団に包まって、微睡むように夢を見よう。それで、起きたら、波に剥がされたペディキュアを塗ろう───今度は、同じ色で。

 

 

 ───終。

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