ふたご座の秋
視界の端で、戯れのように彼女の髪が揺らぐ。最近染めたばかりだというその栗色は、どことなく、秋の始まりを知らせているような気がした。
「海へ行かない?」
宵が終わり煌々とした月の光が窓から射し込んで、満面の笑みでそう言った彼女を浮かび上がらせていた。薄手の布団でふたり、包まって取り留めのない話をしながら眠りに就く筈だったのだが、どうやら彼女は違ったらしい。やけに素足を絡めてくるので、そういうお誘いかと思って少し期待した自分を返して欲しい。いや、返されても困るけれど。
「……海まで、どれくらいかかるか知ってる?」
「今なら道も空いてるし、二時間ぐらいで行けそうだよね」
「いや、そういうことではなく」
思った通りの展開になって、思わず溜息が漏れる。彼女は「えー、わかんなぁい」などと言いながら、相変わらず足の指を器用に使ってふくらはぎを撫でてくる。爪が伸びているのか、少し痛い。そういえば彼女のペディキュアは随分と上の方に居た気がする。お気に入りだと見せびらかすように眼前に迫ってきた、あのルビーみたいなラメ入りの赤を彼女の爪に塗ったのは何時のことだったか。苦手だからやって、と頼むどころか足で攻撃してきたくせに、歪な出来栄えを見た彼女は、自分でやった方が良かったなどと文句を垂れていた。お礼の代わりと問答無用でこちらの爪に塗られたエメラルドグリーンは、確かに綺麗だった。けれど、きっとこれも彼女のほうがよく似合うのだろう。
「ねえ、行かない?海見たくない?」
先程の拗ねたような声音とは打って変わって、甘やかな囁きが鼓膜を撫でてくる。こうなってしまうと、彼女にはもう逆らうことが出来ない。彼女はそれを理解していて、理解したうえでこの手法を使ってくるのだ。たちが悪い。けれど一番たちが悪いのは、そうやって彼女に絆されるのを待っている自分自身なのではないかと、最近気が付いてしまった。
「もう、しょうがないな」
「やった!ほら、早く行こう」
だからこそ、こうして彼女に振り回されておく。それで彼女が楽しそうにしていれば、自分の醜さが上書きされるような気がするのだ。ただ、彼女が望むように生きていれば良い。だって、それが、本望なのだ。
喜び勇んで起き上がった彼女の脚が布団からはみ出して、案の定、爪の先の先に辛うじて残っている赤と目が合った。対比のようなお揃いのようなそれは、彼女とふたりで居る時しかお目に掛かれない。仕事の日や公共の場で会うときの彼女は、必ず靴下を履いているからだ。彼女名義で借りた、ベッドとテーブルと少しの家電しかないこのワンルームに居る時、そして、彼女の我儘で一緒に外出する時しか彼女は裸足にならない。以前それとなく理由を訊いてみたら、秘密みたいで良いでしょ?という返答と小悪魔みたいな狡い笑みしか返ってこなかったので、それ以来気にするのを止めた。
二人して部屋着を床に脱ぎ捨てる。それから、自分は適当なシャツを羽織ってデニムを履く。対して、彼女は生成りのワンピースを纏っていた。このワンピースは彼女のお気に入りだ。近所の古着屋で安く手に入ったのと、帰宅早々自慢げに告げてきたのでよく憶えている。それに、彼女にそのワンピースは良く似合っていて、正直すごく胸が苦しい。やはり自分は、彼女に弱いのだ。
財布と携帯だけを持ち、揃いのサンダルに足を突っ込んで、外に出た。玄関を施錠して、アパートの階段を駆け下りる。定位置に止まっている車に乗り込んで、キーを差し込んだ。エンジン音を聞きながら、シートベルトを締める。それを見て、助手席に座った彼女が思い出したようにシートベルトを締めた。カチャ、という音がしたのを確認して、車を発進させる。彼女はどうかわからないが、少なくとも自分は上手く言い表すことの出来ない背徳感に襲われていて、その所為か車内には暫く沈黙が流れていた。
「夜の海ってさ」
車が高速道路に入って少し経った頃、その沈黙は打ち破られた。彼女がぽつりと落とした言葉は、高速道路特有の轟音の中で辛うじて聞き取れる程度のか細い音だった。合わせるように、こちらの相槌も小さくなる。聴こえたのかどうかわからないが、彼女はそのまま話を続けるようだった。彼女が喋る時、ついその表情を見たいと思って見詰めてしまうのだが、彼女の唇が動いたところで運転中であることを思いだし、慌てて前を向く。彼女を事故に遭わせるような失態は、犯してはならないのだ、決して。
「夜の海って、何色なんだろう」
「黒、じゃないの?」
「それは、私たちの周りが夜だからでしょ」
どうやら彼女は、時折こうして気に掛かった事を考察するのが好きらしい。それに付き合わされて幾度となく夜を明かした。議題を持ち出した当人が早々に飽きてしまい、反対にこちらが気になって仕方なくなることもあった。どうやら、今夜はこの疑問が発端になったようだ。実際に確かめようと思うのが如何にも彼女らしい。
夜イコール黒、のような公式が出来上がっていた脳内では彼女の望む答えなど出せず、けれど彼女もそれっきり何も言わなかったので、車内は再び沈黙の支配下となっていた。夜の高速道路を滑るように走り続ける車の中で、風の強い音に規則的な呼吸音が混ざり始める。横目で見た彼女は既に夢の中だった。ここで引き返すことも考えたが、彼女の疑問に侵食されてしまったこちらの脳内では、それは止む無く棄却されてしまった。こうして睡眠不足は蓄積していくというのに、どうしても辞められないのだ。
彼女の甘やかな声に、仕草に、こうしてずっと囚われている自分は、麻薬の中毒者とそう変わらないようにも思える。彼女が忽然と姿を消すようなことがあれば、きっと自分は生きていけないだろう。彼女を求めて彷徨い続ける、あるいは、彼女の居ない世界に絶望して命を絶つかもしれない。けれど、傍から見たら気味の悪いこの執着を、当の彼女は「おもしろいね」と微笑みながら言ってのけたので、彼女もどこかズレているのかもしれない。少なくとも、自分にとってはそれだけで幸せなことだった。だから、彼女の望むことは何だって叶えてあげたいと思う。ただ、それだけのこと、なのだ。
「ねえ、起きて」
「……ん、あれ、ケーキは?」
「それは夢でしょ、ほら着いたよ」
控えめに彼女の身体を揺すれば、閉じられた瞼が徐々に開いていく。車内の灯りを反射する瞳は、今日も透き通るように綺麗だ。どうやら夢の中に居た彼女は食欲の権化だったようで、世界が中断してしまったことに酷く落胆していた。帰りに買っていくことを提案した途端、シートベルトを外してドアを開けていたので、こちらの手持ちをこっそりと確認する。うん、大丈夫、コンビニのケーキくらいなら何とか買えそうだ。
自分もシートベルトを外して、外へ出る。気持ちよさそうに伸びをする彼女に倣って、運転で凝り固まった筋肉を緩めるように伸びをした。すこし冷たくなった夜風に混じって、海の匂いがした。夏と秋の境目にいるような、不思議な感覚だった。彼女がワンピースの裾を靡かせながら、波の音がする方へと向かっていく。二人分の足音が、交互に砂浜を蹴る。次第に波の音が強くなって、自分が今、何処を歩いているのかわからなくなっていく。高く昇った朧げな月の光では、足元までは照らせない。けれど、彼女のお気に入りのワンピースだけが、淡く浮かび上がっていた。古着屋で、安く売られていた、生成りのワンピース。私が、まだ“わたし”だった頃の、一張羅の───。
「わ、つめた!」
不意に彼女の声が耳を貫いて、自分の意識がどこか遠いところへ行っていたことに気が付いた。と同時に、自分の足に何か冷たいものが纏わりつく。デニムの裾まで及んだそれが波だとわかったのは、彼女に腕を引っ張られてからだった。
「ふふ、濡れちゃったね」
「うん」
「サンダルで来て正解だったなぁ」
少し歩いたところで腕が解放された。砂浜に腰を下ろした彼女が、脱いだサンダルを左手で持ち上げてあっけらかんと笑っている。自分は何だか茫然としていて、立ち竦んだままで相槌を打った。ずっと、彼女から視線を逸らすことが出来ない。今日は、その感覚がやけに強いような気がした。
「みつき」
彼女の唇が動く。動いて、言葉を、紡いでいる。それは何だっただろうか。もう随分と遠くなった過去を呼び起こすような、そんな響きだった。彼女の右手が伸びて、私の左手を握った、そして視線が、私の───わたし、の?
「美月」
「ど、どうして」
そうだ。彼女は、私の、“わたし”の名前を、呼んだのだ。美月、それが私の名前だった。随分と前に捨てた筈のそれを、どうして彼女は、知っているのだろうか。
「まあ、座んなよ」
動揺して強張ったままの私に柔い笑みを見せた彼女が、握った左手を引っ張る。素直に腰を下ろした自分の左肩に、彼女が寄りかかってくる。その重みが、どうしようもなく愛おしいことに変わりはない。けれど、言い様の無い不安が胸を巣食っていく。彼女に知られているなんてこと、想定していなかった。“美月”の痕跡は、完璧に、消した筈だったのに。
「クセ、だよ」
「……クセ?」
波の音を掻い潜って、彼女の声が鼓膜を揺らす。どうやら、問わずとも種明かしが始まるようだった。真っ直ぐ、海の方を見詰めて話し始めた彼女の横顔に、視線が奪われる。重みを感じなくなった肩が冷えていく。寒い、けれど惹き付けられて、逃れられない。今、この瞬間も、ずっと。
そんな彼女の顔が、不意にこちらを向いた。長い睫毛の奥から、潤んだ瞳が自分を射抜いている。綺麗だ、素直にそう感じた。
「美月、私が喋る時、いつも私の顔ばっかり見るんだもの」
「え……?」
「最初は、偶然かなって思った……でもね、やっぱり、美月だなって思うの」
なんでだろうね?と微笑む彼女に、身構えていた気持ちが勝手に、ほろほろと溶け出していく。
「それは、私が聞きたい、よ」
「ふふ、だよねえ」
安堵したのか、泣き出したいような気持ちに駆られて、彼女の顔が滲んだ。自分が今、どんな顔をしているのかわからない。けれど、聴こえてきた声は酷く震えていて、彼女も同じなのかもしれない、と思った。
「最初はね…戸惑って、理由を訊きたくて……でも、否定されるのがこわかった」
「……うん」
「でも、一緒に過ごすうちにね……このまま一緒に居られるなら、良いかなあって」
「うん、」
「思ったん、だけど、ね」
暗闇にも慣れた視界が、柔い月の光で浮かび上がった彼女の頬に伝う雫を捉えて、思わず手を伸ばした。拭って濡れた指を、彼女が掴む。視線が、もう、ずっと逸らせない。彼女の唇は引き結ばれて、瞼は閉じられていく。そして、それらすべての焦点が、合わなくなった。
「子供の頃……こうしてキスしたこと、憶えてる?」
「うん、憶えてる」
忘れる、忘れられる、筈が無かった。まだ、私たちがいつも一緒だった頃に、一度だけ交わした、戯れのような口付けを。ずっと、憶えていた。だからこそ、私はこうして彼女の傍に居るのだ。
「その時さ、美月、言ったんだよ……“海って、何色なんだろう”って」
「……あ」
瞬間、風が吹き抜けるような感覚に襲われた。総て憶えていると思っていた。自分が“わたし”を消す前の、あの瞬間のことを。けれど、今ようやく足りないピースが埋まった様な感じがしていて、自分はなんて狡いのだろう、と思った。たった一言で、彼女を“わたし”に、自分に縛り付けてしまった。執着しているのは、私だけで良かったのに。結局、こうして彼女を───。
けれど、私は同時に嬉しくて堪らなかった。彼女はずっと、あの頃と同じ気持ちでいてくれた。何も言わず、ただ一度口付けを交わしただけの、あの頃と。
「私ね、ずっと解らなかった、どうして美月がそう言ったのかも、海の色も……美月が居なくなって、もっと解らなくなった」
「……うん」
「でも、美月はまた私のもとに戻ってきてくれた、だから、私、一緒に確かめようって、思ったの」
そこまで言って、彼女は一度深く息を吸って、それから長く吐いた。
「みつきはずっと、名前のように……優しくて美しい、月みたいだった、私も、なんで今日を選んだのかは、わからないけど」
波の音も削がれてしまうほど、彼女の甘美な声は私の脳を揺らして、溶かしていった。きっと誰も知らない、二人だけしか知らない私と彼女の歳月を、彼女もこうして慈しんでくれていた。大切に抱えていてくれた。それが嬉しくて苦しくて、酷く愛おしくて、胸が張り裂けそうだった。再び見つめ合う。彼女の顔はずっと揺らいでいて、それがどうしようもなく、眩かった。
「今日の月が、美月みたいだったから、かもしれない……あー!なんか、違う!気持ち悪!」
涙を零しながらこちらを見詰めていた彼女が、急に顰め面をして、立ち上がって叫ぶ。慌ててこちらも立ち上がった。微睡むように弛緩していた周りの空気は、一瞬にして冷たさを肌にぶつけるような鋭さに変わった。
「ええ、ちょっと!雰囲気台無しなんだけど」
「だって、似合わないよ、私たち、こういう感じだったの小学生までだもん」
「いや、そんなこと言われても」
ざくざく、サンダルに砂が入るのも気にせず、彼女は再び波の方へ歩いていく。拗ねた子供みたいな言動に、今の自分と過ごしている時の彼女らしさが感じられて、頬が緩んだ。
水辺に近くなればなる程に風は勢いを増して、彼女の髪を揺らした。バシャバシャと音を立てて、彼女は足を洗うように波と戯れている。朧な月の光がそれを神秘的なものに見せていた。彼女は、いつだって、綺麗だ。その姿を後ろから眺める。
私が“わたし”を捨てたあの頃から、彼女の隣に立ちながらも、ずっと後ろから密かに見守っているような心地だった。それを、柔い月と夜の海が、身包み剥がして連れ去っていった。秋風が、こんなにも心地良い。
「みつき!来て」
彼女が私を呼んでいる。ようやく、後ろめたさも何もなく、堂々と彼女の隣に立てるような気がした。つい先程の彼女に倣って、砂浜を抉るように歩く。足の裏とサンダルの間に砂が入り込んで、ジリジリと痛んだ。けれど、差し出された彼女の右手を握って波に足を浸せば、砂は海に洗い流されて、そんなことはどうでも良くなっていく。ただ、私と彼女がここに居て、これからも、こうして生きていく。ただ、それだけなのだ。
そうそう、帰りにちゃんとケーキを買わなくちゃね。人気の無い朝方のコンビニで、生クリームが一番多いケーキを買おう。ひとつのフォークで半分こして食べるのも、良いものでしょう?そのあと、今度こそしっかりと布団に包まって、微睡むように夢を見よう。それで、起きたら、波に剥がされたペディキュアを塗ろう───今度は、同じ色で。
───終。
胡蝶の夢
目が覚めたら私は十六歳で、白いシーツが敷かれた病院のベッドで白い布団に包まりながら寝転んでいて、十五センチしか開かない窓から射し込む陽射しを眺めているような気がする。朝を朝だと感じるまでにも時間を要して、それが判るころには起床時間のベルが病棟中に鳴り響いている。緩慢な動きで重い身体を起こして、これまた病棟中に流れるラジオ体操を覚えた動作だけ行う。それ程美味しくない朝食を謎の使命感で完食し、食べてしまった後悔の念だけで病棟中をひたすら歩き回る。昼食も同じように掻き込んでは直ぐに徘徊して、疲労感で更に重たくなったような身体を引き摺るように唯一の外である高いフェンスが聳え立つ洗濯干し場に出て、壁に貼るような大きなカレンダーをレジャーシート代わりにして風を浴びる。夕食を平らげて、夜が近付くと滅入る気持ちが私を吞み込んでゆくから、与えられた眠剤でさっさと微睡みに挨拶して仲良く一晩を共にする。そうしてまた、同じように朝が訪れて、私は白いベッドで目を覚ますのだ。
時折、あの頃の私と現実の私が交錯して、何方が現実で、何方が夢だかわからなくなる。現実だと思っていた今の私は、胸の内に巣食う焦燥から目を逸らしてただ眼前に広がる暇を持て余していた、あの頃の自分が見ている夢なのではないか。楽しかったことも糧にしようと決めた苦しい出来事も、そういう大切な時間が全部詰まっている煌めく宝箱のような、そんな倖せな夢を見ていたのではないか、と。でも、実際はどうやらそうでは無くて、そういう時は大抵、現実を直視したく無い時だということだけは理解していた。けれど、そもそも私はあの頃の自分に戻りたいと思っているわけでは無い。むしろ、二度と戻りたくない、とすら思っている。それでも、その自分が見ている夢なのではないか、と現実を捉えようとしてしまう。それは私にとって、今の自分自身の状態を自覚させるような、酷く衝撃を与える事実でもあった。そして、より“これは夢なのではないか”と思いたくなってしまうのだ。
思い返せば、期間としてはひと月にも満たなかったあの時間は、自分にとって最も時の流れが遅く感じられたように思う。記憶が曖昧な所為で、よりそう感じるのかもしれない。思い出される記憶も、すべて自分であって自分では無いような気がしている。正直それは自分の過去を振り返ったときに毎度感じる事なのだが、あの頃の自分に対してはより強く、強烈に感じてしまうのだ。
何もかもが儘ならなくて、けれど儘ならなかったからこそ其処に存在していることを赦されていた、あの春の終わりの自分が、今も心の奥底から私を見ている。現実に怯える私を「本当のお前は此処だよ」と脅している。そして、それに呑まれるほど弱くも無く、またそれを振り切れるほど強くも無い私は、今日も、命綱の無い綱渡りのような現実に縋り付いて生を貪っている。これは夢なのかもしれない、と思いながら。
僕は、君の王子さまになりたかったよ。
「私、本当は人魚なの」
彼女は、そう言って鼻で笑った。自分で言ったことなのに、鼻で笑った。僕も僕で、また随分と理解し難いことを言っているなと思ったが、その日彼女は、灼熱のコンクリートをサンダルを持って裸足で歩いていたので、強ちそうでも無いのかもしれないと思った。そうして考えあぐねた結果、僕は“人魚だから足裏の感覚が無いのかもしれない”などと思い至り、最終的に「そっか」とだけ返した。今思えば人魚は半分が、しかも足の方が魚なのだからこの猛暑にすら耐えられる筈も無くて、やはり彼女は理解し難い人間だった。理解し難い言動をした時に“理解し難いな”と思えるのは、人間の言動だけだ。まあこれは、僕自身が思っているだけのことだが。
「冷たいなあ、相変わらず」
右足用のサンダルを右手に、左足用のサンダルを左手にきちんと引っ掛けて歩く彼女は、道路に引かれた白線の上を踏み外さず歩くことにご執心だ。そのくせ、彼女にしっかりと注意を向けている僕のことを、冷たいと言う。多分、足裏の温度が基準になってしまっている所為だろう。僕はひとつ溜息を零した。彼女はまた少しだけ鼻で笑って、白線の上を一歩ずつ踏み締めて歩いた。海沿いの田舎町なら防波堤の上でも歩いたのかもしれないが、ここは少しだけ都心から離れただけの住宅街である。灼けたコンクリートの、その中でいっとう白く細い線の上を、綱渡りのように裸足で歩く少女はそうそう居ない。けれど僕はその隣を、しかもきっちりと車道側を、彼女の横に並んで歩いていた。それでも彼女の中で、僕は“冷たい”らしかった。
「もうちょっと、驚くとか無いの」
どうやら彼女は、僕の反応が鈍いことが気に入らないらしい。彼女の足裏の感覚の方が鈍くなっているのではないかと僕は思ったが、僕は少なからず彼女よりは賢明なのでそれを口に出すことはしなかった。
「えぇ、知らなかったなあ」
彼女の要望に応えて大きめの声で言ったにも拘らず、彼女は「感情が入ってないなぁ」と、これまた感情の無さそうな声で文句を垂れていた。僕の家までの角はもうひとつしか無いと言うのに、彼女は裸足のままだ。専業主婦である僕の母親と彼女は面識があるし僕自身も家で数回程は彼女を話題に出しているけれど、こんな素行の少女だと知ったらどう思うだろうかと、考えて少しひやりとした。ひやりとはしたが、素行という物は隠すことが出来ないので、僕はやはり黙っていた。今日の僕たちは、やけに沈黙が多かった。その日はそう思ったが、そうでもなかったと今は思う。きっと、今日が僕の中で強烈で、そして未だ鮮明だからなのだと思う。きっとじゃない、絶対にそうだ───だって、これは。
「じゃあ、またね」
先に僕の家の前へ辿り着いた彼女が、白線の上を踏み外さないままで器用にこちらを向いて、そして、微笑んだ。母親の車は無かった。僕は少しだけ安堵した。それは間違いだった。
「うん、また明日」
そう言って、僕は彼女を見送った。一人で歩き出してからも、彼女は律儀に人魚の設定を守っていた。僕がこうして時折彼女を見送っていると、彼女は知っていたのだ。彼女の家は僕の家よりもうひとつ奥の角を曲がって、それから少し歩いたところにある。きっと、その角を曲がるまで、彼女は裸足で歩き続けるだろう。それは少し可哀想に思えたので、僕は態と大きめに家の門を開閉した。聴こえれば良い。そして、彼女が人間に戻ってくれれば良いと、思いながら。
じりり、とけたたましい音がして、僕の意識は現実へと引き戻された。腕を伸ばせるだけ伸ばして、ようやく届いた目覚まし時計のアラームを止める。彼女の夢を見ると、いつも汗を掻いている。けれど、汗だけでは無いことを、僕は解っていた。口に入った塩味は、海のそれに比べれば到底敵わない。それでも、僕はその味が酷く愛おしく感じられた。
彼女は、人魚だった。彼女が帰らないことを知ったのはその日の真夜中で、彼女が還らないことを知ったのは、翌朝、彼女が学校に来ていないことを知ってからだった。僕らは毎日「また明日」と言ってから別れていた。けれどあの日、あの日だけ、彼女は「じゃあ、また」としか言わなかった。“また”の先がいつなのかを、彼女は教えてくれなかったのだ。
それから暫くして、彼女にはずっと片想いしていた人間が居て、あの日に振られていたことを知った。そういえば、彼女はあの日、俯きがちだった。目元が赤かった。ずっと瞳が潤んでいるような気がした。僕はそれを、確実に、確実に見ていたのに、見て見ぬ振りをした。何も言わなかった。片想いをしていることだって、知っていたから。だって僕は、ずっと、彼女に注意を向けていたのだ。彼女が誰かに恋をしていたように、僕も、僕だって、彼女に恋をしていた。彼女が、好きだったのだ。
彼女は人魚だった。美しい、人魚姫だった。だから、泡のように消えてしまった。そして僕は、彼女が恋焦がれる、王子さまでは無かった。それだけのことだった。夏は直ぐに去っていって、彼女らしき水死体がどこか遠くの海で発見されて、その話題も泡のように消えていった。僕のこの想いも、消えてくれれば良かった。けれど、それでは彼女が人魚だった事実を、それを僕だけに打ち明けたことすらも、無くなってしまう気がした。それは、それだけはどうしても嫌だった。
相反する感情が胸の内で混ざり合う度に、僕はこうして夢を見る。そして、彼女が居ない現実に戻る度、塩味を愛おしく思って、そんな自分を鼻で笑った。そうしたら、彼女が、「冷たいなあ」と笑ってくれる気がして。“願わくば──”なんて思う、僕の灼けたままのこの気持ちごと鼻で笑って、泡のように、軽くしてくれるような気がして。
───終。
「悪夢を見た、ただ、それだけの話さ。」
こういう形の文章を書くのは随分と久しぶりだと思う。完全な日記に似た文章は。最近は自分の感情の波が荒立っても、こうして長文を書くというよりはちょっとした小説に似た文章の中に落とし込むことが多かった。この場合の荒立つというのは何も怒りというわけでは無い。人に対する怒りは、私の中であまり喚起されることは無いからだ(自分に対しての怒りは時折生じるけれど)。本来なら以前から開いていた全然違う場所の日記サイトに投稿しようかとも思ったが、大学を卒業してから開きたいとも思えず健忘録化しているので新しく開設することとした。念の為記述しておくが、松葉に少しでも好感を持ってくれている人(居るかどうかは考えないことにしている)はきっと幻滅するだろうし、リアルの知り合いにも言っていないことが出てくる可能性があるので、調子が悪い時や私に対してあまり良く思ってない時に見ることはお勧めしない。それで嫌われてしまったら普通に悲しいので。まあ、大丈夫だろう、という方のみどうぞ。
知らぬ間に幸福になっていた。これは私が高校生や大学生の頃に望んでいた幸福と殆ど変わらない。就職し、個人的には毒だと思う親から離れて、尚且つ仕事が楽しい。楽しくないことももちろんあるし、まだ新人だからかもしれないけれど、すごく楽しい。そして、そのお給料で自分の生活が送れている。好きな食べ物と、服と、推しのグッズが買えて、好きな所へ行ける。会って、話して、遊んでくれる友達もいる。嫌なことを言ってくる人も殆ど居ない。ずっと仲良くしていた友人と縁を切ったことを、何故か何も知らない中学の同級生に否定されたくらいだ。その人は今私のLINEにずっと既読を付けていない。ちょっとどうなのかと思ったが、その人も私の言葉がトリガーになって感情を掻き乱されてしまったなら仕方ないのかな、とも思う。別にその人とそのことについて話し合おうがしまいが、私は友人(だった人だが)と復縁するつもりが無いので、正直何でもいいと最近は思っている。
話を戻そう。そう、幸福。幸福とは何だろうかと夢想を始めてしまうと、必死に繋ぎ止めている自我が更に崩壊しそうなので辞めておく。鏡に向かって「お前は誰だ」と言い続けると自我が崩壊する、というのが一時期流行ったが、それと似たような事だと思う。自分自身が不安で気にしていることを突き詰めすぎると壊れてしまう、だけのことなのではないかと。それで、私の中の幸福と言えば、ほぼ先述したような事だった。何かに追い立てられない、誰にも阻害されない、それなりの生活。お金にも地位にも特に執着していない(勿論、生活していけなかったり虐げられたりするのは嫌である、あくまで最低限の人権が守られたうえでの話だ)ので、本当に穏やかな生活だと思う。幸せ、なのだろうと。
けれど、私はずっと何か焦燥感や不安に似たものを感じ続けている。私は華の十代後半、それこそ一般的な高校時代の半分以上を所謂"メンヘラ"として過ごした(これに関しては追い追い深掘りするかもしれないし、しないかもしれない)ので、ある程度のものは仕方ないとは思っていた。そう簡単に抜け出せるのなら、私の16~19歳はもう少し良いものだったと思う。その時の経験が自分の中で活きている部分もあるし、これもまた自我が崩壊しかねないので、完全悪だったとは言わないが。"メンヘラ"が病んだらのめり込むようなことを、あの頃に殆ど経験した。その名残で私が袖無しの服を着れないとか、調子が良くないと人混みに行けないとか、まあそういう後遺症もある。ああそうだ、今は深掘りしないんだったっけ。話を脱線する癖は、文章でも治らない。けれど文章は良い。読み返せば戻ることが容易だから。さあ、また話を戻そう。
それなりに幸せな、丁度良い温度の温泉にずっと浸かっている。それなのに私はほぼ毎夜(夜とは限らないが、疲れた時に生じやすいのか仕事が楽しいと感じている故か、夜が多い)、不安というか、固定観念のようなものに襲われる。漠然と”もうダメだ、終わりにしなければ”という思いに駆られる。希死念慮、が一番近いかもしれない。別に仕事で失敗したとか、そういうことが何もない日でも、何なら褒められた日でも、気付けばそう思っていて、それを抑え込むように眠ったり、ただ天井を見上げて無になろうとしたりしている。
もしかしたら心のどこかで、自分が本当に幸せになっていいのか、と思っているのかもしれない。それは"メンヘラ"だった頃からずっと思っていたし、周りから言われることもあった。生活は破綻していたのに、「お前のそれは甘えだ」と詰られた経験が、今も自分へ蔦のように絡んでいるのかもしれない。結局、メンヘラはそう簡単に辞められないし、人格形成の中で大きく肥大してしまえば、それはもう一生付き合っていかなければならないものなのかもしれない。けれどまだ、自分の器がそれを受け止めきれる程、大きく頑丈になっていないのだろう。継ぎ接ぎを繰り返しているのだ。何処まで持つかは判らない。ただ、私は今きっと、幸せの中に居る。
突然、しかもブログを作成して最初の記事がこれ、というのはなかなかエグいなあと思う。誰かのトラウマを抉ったり、不快な思いをさせてしまったりしていたら申し訳ない。注意書きは書いたものの、結局こういうものは見てみないと解らなかったりするから。けれど、私がTwitterで零す文章たちは、この自分によって形成されているので、もうどうしようもないのだ。
最後に、"職場の人間に悪口を言われ呆然と帰宅していたら、突如現れた友人だった人に嘲笑されながら追いかけ回され泣き喚きながら逃げる”という悪夢を見ただけで、二度寝出来ないし何処かへ記録したい!と思い立ち、これだけの文章を書く人間は気持ち悪いなと思いました。おしまい。